年が明けて1月4日。
喫茶とまりぎ初営業日。海が笑顔で接客している。いつも通り、いい笑顔だ。
彼女がいればこの店は大丈夫、そんな安心感があった。 そして大地。 相変わらずの仏頂面だが、仕草ひとつひとつにやわらかさを感じる。 何と言うか……そう、いつも感じてた緊張感がなくなっている。 そう思い、微笑み。ホールの隅に立っている大地に青空〈そら〉が近付いた。「むふふふっ」
「青空姉〈そらねえ〉……店でその顔はやめろ」
青空〈そら〉の意味ありげな笑みに、大地が困惑した。
* * *
1月1日元旦。大地と海は浩正〈ひろまさ〉宅を訪れた。
例年、この日は皆で初詣に出かけていた。今年は海も一緒だ。 そして青空〈そら〉は思った。大地と海、二人の距離が縮まってると。「浩正さん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「おめでとうございます、大地くん。昨年も色々と協力していただき、ありがとうございました。こちらこそ、今年もよろしくお願いします」
「浩正さん、あけましておめでとうございます。今年も頑張ります」
「おめでとうございます。海さんが来てくれて、とまりぎの雰囲気が一層明るくなりました。今年もどうか、よろしくお願いします」
「青空姉〈そらねえ〉、あけまして」
「童貞卒業おめでとう!」
頭を下げようとした大地に向かい、青空〈そら〉が満面の笑みで声を上げた。
その言葉に大地が咳き込む。海は赤面してうつむいた。「げほっ、げほっ……青空姉〈そらねえ〉、それが新年一発目の言葉なのか」
「うん! だってお姉ちゃん、嬉しいんだもん!」
「青空〈そら〉さん……」
両手で顔を覆い、海が身悶える。
「て言うかおかしいだろ! 正月だぞ正
病院に着いた大地が案内された場所。それは地下の霊安室だった。「どういうこと……ねえ大地、どういうこと?」 海が声を震わせる。大地はゆっくり歩を進め、部屋の扉を開けた。「……」 薄暗い室内にはベッドが設置されており、線香が焚かれていた。 ベッドの上には、白い布をかけられた人の姿。そしてその傍らに、浩正〈ひろまさ〉が立っていた。「大地くん、海さん。間に合ってよかったです。さ、青空〈そら〉さんに会ってあげてください」 浩正が静かにそう告げる。海は大地の腕をつかみ、肩を震わせた。「さあ、大地くん」 もう一度浩正が促す。大地は弱々しくうなずき、ベッドに近付いた。「……」 ベッドの上に横たわる人。 間違いであってほしい。そんな願いが粉々に砕け散る。「青空姉〈そらねえ〉……」 まるで眠っているような、穏やかな表情だった。 声をかければ起きるんじゃないか、そう思えた。 しかし。 布から出ている手を見て、息が止まった。 血まみれで、いびつに折れ曲がった小さな指。 大地が震える手でそれに触れた。「……なんだよこれ……なんでこんなに冷たいんだよ……」「うわああああああっ!」 海が遺体に顔を埋める。「青空〈そら〉さん、青空〈そら〉さん……うわああああああっ!」 何度も何度も青空〈そら〉の名を叫ぶ。 大地は青空〈そら〉の手を握ったまま、その場に膝から崩れた。 * * * 何も考えられなかった。頭が真っ白になっていた。 俺、今何をしてるんだ? ここ、どこだっけ。 今握ってるこの手は、誰のだっけ。
下品な笑みだな。 男たちを見つめ、大地がため息をついた。 * * * こういう輩、絶滅しないもんだな。 何も言わなくていいよ。次に出て来る言葉、全部分かるから。そう思った。「おっさんおっさん、こんなところで何いちゃついてんだよ」「しかも相手はガキじゃねえか。ほんと、ロリコンはクズばっかだな」 青空〈そら〉は大地の胸に顔を埋め、震えていた。 寒さのせいじゃない。男たちの雰囲気から、あの忌まわしき過去が蘇ってるようだった。「大丈夫だ青空姉〈そらねえ〉。安心しろ」 耳元で囁き、頭を撫でる。「おいおっさん、無視してんじゃねえよ」「格好つけてんじゃねえぞ」 これまで、何度もぶつけられてきた感情。 父から、母から。同級生から。 そのどれよりも軽い、薄っぺらいものだと思った。 自然と口元が歪む。「おいお前、何笑ってんだよ」 そっと青空〈そら〉を離し、立ち上がる。 大地の態度に苛立つ男が、大股で近寄り胸倉をつかんだ。「何笑ってんだって言って」 男の言葉が終わらない内に。大地は胸倉をつかむ男の腕に自分の腕を振り下ろした。 何が起こったのか理解出来ない男がバランスを崩す。その男の顎に向け、大地が重い掌底を食らわした。「なっ……」 吹っ飛ばされた仲間を見つめ、男たちが声を漏らす。「……いつも思うんだけどな。なんでお前らってこう、無防備に相手の間合いに入るんだ? 胸倉をつかむ暇があるなら、まず殴れよ。あれほんと、隙だらけだからやめた方がいいぞ」「お前……」「今ので実力差は分かったろ? さっさと消えろ」「ふざけんな!」 やみくもに男が突進してくる。そして大ぶりの拳を大地に放つ。 大地がすっと体を沈めると、標的を
1月19日。 この日は青空〈そら〉の、38回目の誕生日だった。 * * * 昼前、待ち合わせ場所で合流した大地と青空〈そら〉は、肩を並べて歩いていた。「でもよかったのかよ。折角の誕生日、相手が俺で」「ただの誕生日じゃなくて、独身最後の誕生日ね」「尚更だろ。俺じゃなくて浩正〈ひろまさ〉さんと」「浩正くんとは夜だから。その後は、むふふふっ……想像しただけで昇天しそうだよ」「昇天って……まあでも、楽しそうで何よりだ」「今日だけは、あんたとこうしたかったんだよ」 そう言って曇天の空を見つめる。「考えてみたらこういうデート、一度もしてなかったからね」「姉弟だからな」「そうなんだけどさ。でもほら、仲のいい姉弟なら、こうしてデートの一度や二度、してると思うんだ」「どこ情報の話だよ。聞いたことねえぞ」「あんな馬鹿親のところに生まれてなかったら、もう少し早くこういうことも出来てたのかなって思う」「……」「施設に入ってからは、周りに打ち解けることに必死だったし。一緒に住むようになってからも、生きることが目標になってたし」「青空姉〈そらねえ〉、必死に働いてたもんな」「夢にまで見たあんたとの生活、何が何でも守りたかったんだよ」「俺もだよ。中学の内は働けない、そんな訳の分からん法律をどれだけ憎んだことか」「だからね、あんたとこうしてデートするの、ずっと夢だったんだ」 そう言って幸せそうに微笑んだ。「私にとって、今までで一番幸せだった思い出。それは子供の時、アイスを買ってあんたと二人、夕焼けの公園で一緒に食べたこと。あれ、またしてみたいな」「アイスって、真冬だぞ? 無茶苦茶寒いと思うんだけど」「それぐらい我慢してよ。誕生日のお姉ちゃんの願い、叶えてよ」
年が明けて1月4日。 喫茶とまりぎ初営業日。 海が笑顔で接客している。いつも通り、いい笑顔だ。 彼女がいればこの店は大丈夫、そんな安心感があった。 そして大地。 相変わらずの仏頂面だが、仕草ひとつひとつにやわらかさを感じる。 何と言うか……そう、いつも感じてた緊張感がなくなっている。 そう思い、微笑み。ホールの隅に立っている大地に青空〈そら〉が近付いた。「むふふふっ」「青空姉〈そらねえ〉……店でその顔はやめろ」 青空〈そら〉の意味ありげな笑みに、大地が困惑した。 * * * 1月1日元旦。大地と海は浩正〈ひろまさ〉宅を訪れた。 例年、この日は皆で初詣に出かけていた。今年は海も一緒だ。 そして青空〈そら〉は思った。大地と海、二人の距離が縮まってると。「浩正さん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」「おめでとうございます、大地くん。昨年も色々と協力していただき、ありがとうございました。こちらこそ、今年もよろしくお願いします」「浩正さん、あけましておめでとうございます。今年も頑張ります」「おめでとうございます。海さんが来てくれて、とまりぎの雰囲気が一層明るくなりました。今年もどうか、よろしくお願いします」「青空姉〈そらねえ〉、あけまして」「童貞卒業おめでとう!」 頭を下げようとした大地に向かい、青空〈そら〉が満面の笑みで声を上げた。 その言葉に大地が咳き込む。海は赤面してうつむいた。「げほっ、げほっ……青空姉〈そらねえ〉、それが新年一発目の言葉なのか」「うん! だってお姉ちゃん、嬉しいんだもん!」「青空〈そら〉さん……」 両手で顔を覆い、海が身悶える。「て言うかおかしいだろ! 正月だぞ正
帰宅した二人が、不自然な笑顔を向け合う。 どちらも目が泳いでいた。「じゃ、じゃあ俺、風呂にお湯張ってくる」「う、うん。ありがとう」「にしても今日は寒かったな。海も体、冷え冷えだろ」「そ、そうだね、あはははははっ」「しっかりぬくもるんだぞ。じゃないと折角の休暇、風邪で寝込むことになっちまうからな」 * * * 大地、声が上ずってるよ。 そんなに緊張されたら私、どうしていいか分からないじゃない。 それとも大地、ひょっとして今夜……そう思ってる? お気に入りの下着、洗濯終わってたっけ。 そんなことを思いながら、慌てて引き出しを開ける。 そして目当ての物を見つけると握り締め、「よしっ」とうなずいた。 私にとってはそうじゃないけど、大地にとっては初めての経験。 こういうのって、やっぱ自分から何もしない方がいいのかな。 大地だって男なんだし、女が変に出しゃばったら傷つくかな。 でももし戸惑うようだったら、ここは先輩としてリードすることも…… * * *「お湯、入ったぞ」「ひゃい!」「……なんだそれ」「何でもない何でもない。じゃあ先にお風呂、いただくね」「お、おう……ちゃんとぬくもるんだぞ」 * * * 風呂からあがり、大地と交代する。 ベッドにもたれ、落ち着かない様子でビールを口にする。 落ち着け、落ち着くんだ私。 初めてって訳じゃないんだから、緊張するな。 でも…… ふと胸に手を当てる。「貧乳好きっていうのは青空〈そら〉さん情報で……大地から直接聞いた訳じゃないんだよね」
「私が好きだと、大地は迷惑?」 海の言葉に大地が戸惑う。その質問は反則だろ。「裕司〈ゆうじ〉から簡単に乗り換えた、軽薄な女って思ってる?」「んなこと思ってねーよ。て言うか、アホなこと聞くんじゃねえよ」「アホなことじゃないよ。私自身、そう思ってるんだから」「……」「私にとって、裕司はかけがえのない存在。裕司以外を好きになるなんて考えられないし、裕司以上の人がいるとも思わなかった」「それでいいじゃないか。お前にとって、裕司はそういう存在だったんだ」「でも裕司がいなくなって、心に大きな穴が開いて……生きてても仕方ない、そう思って死のうとして」「そうだな」「でもそんな時、大地に出会って。大地と過ごしていく内に、どんどん大地に惹かれていって……どうしてくれるのよ!」「なんだなんだ、いきなり怒るな」「うるさい馬鹿! 黙って聞け!」「すいません……」 青空〈そら〉がテーブルを叩いて笑う。「裕司への気持ち、それが嘘だったんじゃないかって思うぐらい、あんたのことを考えるようになっていって……裕司の存在が、どんどん過去に変わっていって……それに気付いた時、私がどれだけ戸惑ったか分かる? どれだけ泣いたか分かる? 誰のせいだと思ってんのよ!」「悪い、悪かった。だから少し落ち着けって」「落ち着いていられる訳がないじゃない! これって、人生全てを賭けた問いでもあるんだから! それなのに大地は……大地は…… 私の覚悟を見ない振りして、聞かなかったような顔で逃げ続けて……ヘタレ! 童貞!」「童貞は余計だろ」「別にいいじゃん。あんたが童貞なのは本当なんだし」「青空姉〈そらねえ〉……少し黙っててくれ」「大地ってば、童貞だったんだ」「海お前……自分で言っておきながら、なんでそこだけ冷静に突っ込むんだよ」「だって大地の年齢なんだし、当然経験してるものだとばかり」「んなもんねえよ。言
「それで? 告白の返事、いつになったらくれるのよ」 とまりぎ忘年会。居酒屋にて。 海の一言に大地がビールを吹いた。 青空〈そら〉はテーブルを叩いて笑っている。「げほっ、げほっ……ど、どうした海、藪から棒に」「薮も棒ももういらないの! そんなことよりどうなのよ!」「お前……もう限界だろ。頼んでやるから水飲んどけ」「限界じゃありませーん。酔ってなんかいませーん」 そう言ってジョッキを持つのを大地が遮る。「いやいや、どう見ても酔ってるから。今日はこの辺でやめとけって」「うっさいなー。あんたは私のお母さんか」「せめて父親って言えよ。って、んなことどうでもいいわ。すいませーん、お冷やひとつくださーい」 個室から顔を出し、大地が店員に声をかける。その隙に海はジョッキを手に、残ったビールを一気に流し込んだ。「ぷはぁーっ! 生きてるって最高―っ!」「ったく……青空姉〈そらねえ〉も笑ってないで止めろよな。誰のせいだと思ってんだよ」「にゃははははっ、悪い悪い」「全く……」 * * * 行きつけの居酒屋で始まった忘年会。一年の思い出や来年の抱負など、鍋を囲み和やかな時間が続いた。 そして話題が、青空〈そら〉と浩正〈ひろまさ〉の結婚式になった。青空〈そら〉が大地の肩を抱き、「大好きなお姉ちゃんを取られて寂しいか? どうなんだよ、このシスコン野郎」と絡むのを見て、海も楽しそうに笑っていた。「それで青空〈そら〉さん、ウエディングドレスはもう決めたんですか?」「この前レンタルの衣装屋に行ってきてね、浩正くんと一緒に決めたよ」「そうなんだー。楽しみだなー、青空〈そら〉さんのウエディングドレス姿」「私は海ちゃんのも見てみたいけどね」「私の…&hell
クリスマスが過ぎ、街は一気に年末の空気に変わっていった。 客の入りもかなり減り、大地たちはこれ幸いと、とまりぎの大掃除に勤しんでいた。 ここは来年の秋を目途に、浩正〈ひろまさ〉と青空〈そら〉が夢見ていた有料老人ホームへと姿を変える。かなりの改装が必要だが、それまで客が気持ちよく利用出来るよう、大地も例年以上に気持ちを込めて動いていた。 そして何より、年が明けるとここで、青空〈そら〉と浩正が結婚式を挙げる。 招待状も既に配り終えていた。常連客は勿論、ここを利用している老人ホームの利用者たちにも配っていた。 * * * しかしそんな中、辛い出来事があった。 クリスマス当日。いつものように利用者たちを迎えた大地たちだったが、そこに中山の姿がなかったのだ。「あれ? すいません、中山さんは」 海の問いに、スタッフが目を伏せた。「中山さんは……二日前に逝去されました」「え……」 海が目を見開く。「嘘、なんで……中山さん、また来るって言ってたのに……この前会った時、あんなに元気だったのに……」 呆然とする海を大地が支える。「大丈夫か」「なんで、どうして……中山さん、あんなに楽しそうに笑ってたのに……突然すぎるじゃない……」「そうだな、そう思う。だけどな、海。これが現実なんだ。別れはいつも突然なんだ」「酷い、酷いよ……中山さん、きっともっと生きていたいって思ってた……それなのに、こんな急に旅立って……早く死にたいって思ってた私が生きてるのに、どうして中山さんが……」「そうだな。でも中山さんにとって海と出会えたこ
「疲れたー」 12月24日、クリスマスイブ。 帰宅した海が、そう言ってベッドにダイブした。「今日はお客さん、ほんと多かったよね」「まあ、嘘でもイブだからな。外でお茶したい人も多かったんだろ」「明日も忙しいんだよね」「老人ホームの利用者さんを招待してるからな、それなりに忙しくなると思うぞ」「中山さんも来てくれるかな」「ははっ。海、中山さんのこと気にいったみたいだな」「だって中山さん、胃ろうで何も食べられないのにニコニコしてて。こんな私にも優しくしてくれるんだから」「確かにな。俺にはあんな顔、見せてくれたことはなかったよ」「なになに大地、嫉妬?」「90歳越えの人相手に、嫉妬も糞もねえだろ」「ふふっ、そうなんだ」「ちなみに海、忙しいのは明日で終わりじゃないからな。明後日からは正月準備があるし、年が明けたら青空姉〈そらねえ〉の結婚式もある」「22日だったよね。青空〈そら〉さんの誕生日の3日後」「その後だって、新婚旅行で3日店を任されてるんだ。しばらくゆっくり出来ないぞ」「分かってる、分かってるって。でもとにかく、今日は疲れたー」 両手を伸ばし、思いきり伸びをする。「大地はどう? 疲れてない?」「いつものことだからな」「そうなんだ。やっぱ大地、男の子なんだね」 そう言って微笑むと、大地は照れくさそうに顔を背けた。 * * * 海に告白されてから、数日が過ぎていた。 あれ以来、海はその話をしてこない。ただ、明らかに態度が変わっていた。 笑顔が多くなった。それも自然な笑顔だ。 青空〈そら〉はそのことを、裕司〈ゆうじ〉の呪縛から解放されたからだと言った。「呪縛って……青空姉〈そらねえ〉、裕司を悪霊みたいに言ってやるなよ」「実際そうなんじゃない? 彼のおか